タロットカードの昼と夜

「二律背反性」をテーマにタロットカードの意味を解説していきたいと思います

大アルカナ12番「吊るされた男」の意味


はじめに

この記事では大アルカナ12番「吊るされた男」の解説をします。

吊るし人とも言いますが、個人的に吊るされた男の方が好きな言い方なのでこっちにします。

このカードは私が大好きなカードの一つで、中学生の時にたまたま本屋で買ったタロットカードの本(今やだれの本かはわかりませんが、オリジナルの大アルカナカードがセットだった)の解説を適当に読み流してるときに、一番心にぐっと来たカードです。

入門用のセットでしたから、「今は苦痛かもしれないが、男の表情からわかるように何かに気づいており、今後状況は好転していくだろう」程度の解説でしたが、絵の解釈というものをしたことがない当時の私にとっては十分に衝撃だったのを覚えています。

このカードが好きすぎて、以下の話は具体的なリーディングには役に立たないかもしれませんがご容赦ください(タロット愛好家ならわかってくれるはず)。

絵の解釈

まず、男が吊るされている木はT字の形をしています。

これは、水平な木が天を、垂直の木が人間を表していて、天と人間の関係を暗示しています。

つまり、縦の木(人間)が伸びようとしているのですが、それを止めるように水平の木(天)が横たわっています。

これは、人間がいくら努力したところで、できることは限られており、大きな力が世界には働いているという世界観を示していると思います。

ここで、「世界は神の意志で動いている」、「世の中の出来事は全て必然である」といったゴリゴリの神秘主義にならなくても、人生が上手くいかない時には、「こういう運命なのだ」と割り切るしかないですし、現実を受け止める姿勢こそが主体的に生きるために必要な姿勢ですから、そういったどうにもならない現実を暗示しているという理解で良いかと思います。

続いて、男の表情とその後光。

これは、単純に、苦しい中でも何かを悟っており、それについて神の祝福があることを示しているということかと思います。

重要な何かに気づいたのだと思います。

しかし、男の服装は要注意です。

赤のズボンに青のシャツ。

つまり、これは火と水という矛盾する関係の暗示ですから、吊るされた男の葛藤を意味しています。

もちろん、男はすでに何かを学び悟りを得ていますが、そこまでの過程で心の中で葛藤があったことを示しています。

さらに、男が吊るされている木は生きていて葉が茂っており、これは生命力を象徴しています。

したがって、この男は葛藤や対立に悩む苦しい状況にありながら、死んではおらずむしろ生命力を強めており、大いなる収穫を後に得ることが暗示されています。

最後は男のポーズ。

これは、アーサー・ウェイトの公式ガイドブックだと卍型とされていますが、これはよくわからない。

両手の逆△と足の十字でSulfurのマーク(運命の輪の右に書いてあるのマークで火の意味)を作っているとも言えますが、やはりこれも自分の中でしっくりこないので割愛します。

素直に、足が十字を作っていて、イエス・キリストの受難を暗示しているという理解で良いかと思います(ここは後に少し細くします)。

個人的には、両手は縛られているのに足は片足しか縛られていない点は気になります。

本来なら両足も含めてがちがちに縛られているべきなので、片足のみというのは、逃げようと思えば逃げられたという状況の暗示ではないかと考えます(少し強引ですが)。

すなわち、悩んだ末の悟りなわけですが、逃げ出そうと思えば逃げ出せた状況なのに、葛藤や対立に真正面から対峙したゆえの悟りを表していると言えます。

以上、絵の説明をしましたが、後半の男のポーズのところからは少し舌足らずなので以下で詳述します。

キリストと奇跡

私は中学高校とカトリックの学校出身で、毎週1時限は宗教の時間なるものがあったので多少はキリスト教のことは知っているのですが、多くの人は具体的な中身についてそれほど知らないかもしれません。

それでも、イエス・キリストという人が、数々の奇跡を起こしつつも、最後はゴルゴダの丘で磔にされて処刑されたことはご存知かと思います。

これについて、なぜ自分が殺されそうになっている状況で奇跡を起こして助からなかったのか、生き残ってもっと布教活動をすべきだったのではないかという疑問を抱いたことがある人もいるかもしれません。

実は、これには模範解答があって、それは、奇跡を起こすことで民衆が奇跡の奴隷になることを避けたというものです。

奇跡を起こして助かることもできたが、それをしてしまうと民衆が奇跡の虜になり、今までの自分の言葉を忘れてしまい、これまでの行いが水の泡となってしまうと。

自分がいなくても、これまでの自分の言葉を丁寧にたどっていけばどう生きるべきかは明らかであり、人々が自らの意思で正しい生き方を選択することを望んだというものです。

ちょっと出来過ぎた話ではありますが、非常にもっともな話でもあり、この時のキリストはまさにこのカードが示す状況だったと思います。

自分は苦痛の中にあり、また、助かることもできた。

しかし、今ここで逃げ出したら今までの努力が水泡に帰す。

しかし、苦痛を正面から受け止めれば、大いなる収穫を得ることができる。

自分は今ここで死んでも、その後、人々が自分の言葉を思い出し、自らの意志で正しい生き方を選択する世界が来るという点で、自分の復活を確信しています。

これは、アーサー・ウェイドが公式ガイドの中で言うように、「生命の停止を表してはいるが、死んでいるわけではな」く、むしろ生命力を感じさせ、栄光に満ちた大いなる目ざめを暗示しています。

フランクルの「夜と霧」

ヴィクトール・フランクルという人が書いた「夜と霧」という有名な本があります。

私の大好きな本でものすごく感動します(タイトルから連想されるような硬い本ではなく読みやすいです)。

著者はユダヤ人であり、先の大戦中、ナチスドイツに捕らえられ強制収容所に送られ壮絶な日々を過ごすのですが、ガス室送りになる前に終戦が来てなんとか生き残ります。

その体験記なのですが、著者は精神科医でありウィーン大学医学部精神科教授という立場でもあったために、自分の経験を語りつつも、悲惨な体験を描写するだけでなく、自分の心も含めた、強制収容所内の極限的な状況の中で交錯する様々な人たちの心理状態を分析してる本です。

列車にぎゅうぎゅう詰めにされて強制収容所につくと、まず最初に見た目だけの身体検査で人がえり分けされます。

体が丈夫そうな1割が選ばれ、残りの9割はまずシャワーを浴びろということで裸にされ、石鹸を持たされシャワールームという名の部屋に押し込まれ、もちろんそこがガス室です。

残りの1割に待っているのは、過酷な強制労働です。

十分な衣類や食料も与えられず、極寒の中、現場監督の理不尽な暴力に耐えながら朝から晩まで肉体労働をさせられます。

朝のベルがなって、数分後の点呼までに着替え終わらなくてはならず、かじかんだ手で時間内に靴を履けなければ片足は裸足のままで夜まで作業させられ、凍傷になったり怪我したり、働けなくなったらガス室送りの状況です。

そんな中で、微妙な仲間意識も育つのですが、みな自分が生きて帰るために疑心暗鬼となっており、一部が別の収容所に移動させられるらしいなどの情報が入るとそれがアウシュビッツのようなほぼ生還できない収容所の可能性もありますから、とにかく自分だけは名簿に載らないようにと、自分が名簿から外れればその代わりに誰かが死ぬわけですが、そんなことはお構いなしの裏切り合戦という、生き地獄が展開されています。

そういった中でも何とか正気を保ちながら、フランクルは人間観察を続けるわけですが、極限状況における典型的な人間の反応に「放棄」というものがあります。

これは、毎朝どこかの班で定期的に起こることで、朝ベルが鳴っても起きない人が出てくるわけです。

もうすべて無駄だと。どうせ殺されるんだし、飢えに耐えながら働いて何の意味があるのかと。

全てを放棄して、待っている結末は明らかなわけですが、それをわかってて、もう何もかもいやだと生き残ろうともがくのを止めてしまうわけです。

フランクル自身も終わりのない絶望の中でそういった誘惑にかられます。

再び家族に会えることだけを心の拠り所にして頑張るのですが、本当のところ別の収容所に送られた自分の妻や両親の運命も薄々気づいています。

もう今日こそ起きるのをやめようかと毎朝思います。

しかし、あることが思い出されます。

収容者は皆、疑心暗鬼と疲労と飢えで心は荒廃しているのですが、それでもほんのわずかに、ほんのわずかですが、病人になけなしの食料を差し出し、労働中に倒れたものがあると、現場監督に暴力を受けることを承知でも倒れたもののところに行って心配するような高貴な人達がいるわけです。

そういった、絶望的な状況の中でも人としての道を失わない人々を見てフランクルは生きる力を取り戻します。

人生の意味を問うのは、人生から何を得られるのかを問うという受け身の態度に等しい。

人生の方が問うているのであり、今この瞬間何をするのか、自分こそが問われているのであり、その問いに答え続けることが人生である。

どうするべきか、本当は分かっているはずだと。

これが、絶望の中で最終的にフランクルがたどり着いた境地であり、その結果、誰もが嫌がった腸チフス病棟の担当に立候補して、それが結局は命を助けることになります。

この考え方は、フランクル心理学とかトランスパーソナル心理学などといわれています。

しかし、そういったまとめ方をされ、幸せそうな学者に、「絶望の底にあっても人生は考え方次第で大きく変わる」などといわれるといかにも陳腐な感じがするのですが、原典である「夜と霧」を読むと、自分と同じような一人の小さな人間が、極限的な絶望の中で生きる力を取り戻していく様子は非常に感動します。

もちろん、人によって苦労も様々ですし、他者が抱えている絶望に対して「わかる」などということはできません。

また、自分が幸せだと思うから幸せなのか、周囲から幸せだと認められるような状況を手に入れるから幸せなのか、これは究極の疑問です。

しかし、自分が不幸に陥ったときに、現状から逃避するのではなく正面から受け入れる必要性や自分がしなくてはいけないことを心の底ではわかっているはずであり、主体性を取り戻すためにも、フランクルのような人間がいたことは力になります。

カードの意味

以上、長々とキリストとフランクルの話をしてきましたが、それらを考えるとこのカードの意味は明らかになります。

火(赤)と水(青)のような対立する葛藤を乗り越えてたどり着く境地。

苦難の中にあっても、そこから逃げるのではなく、その中に意味を見いだし、それこそが大きな収穫につながるという、自分の中の可能性を暗示してるカードです。

一時的な安寧ではなく、大いなる目覚めに基づく安寧であり、まさに生命力をの源です。

それは、キリストのように、絶対的な確信を持っているとは限らず、フランクルのように、心ない人たちから「単なる自己暗示」とか「自己洗脳」と揶揄されてもしかたのないおぼつか無いものかもしれません。

しかし、究極的には幸も不幸も主観的なものであり、自分がどう生きるかだけでなく、自分がどう思うかを決めるのも自分です。

運命論者にならなくたって、目の前のどうしようもない現実の中で、どう生きるか、その答えは自分の中にあり、本当は分かっているはずです。

大事なことは決めるのは自分であると気づくことです。

まとめ

正位置
苦難。しかし、そこからの学び、またその後の収穫。そして、その本質は自分の中にあるということ。

裏側から言うと、大きな気づきがあり心は安らかではあるが、目の前の現実には忍耐や苦労がある。

逆位置
表面的な幸せや安定。しかし、状況から逃げているだけで、本当は自分で納得がいっておらず、心は安らかではない。


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テーマの著者 Anders Norén